あふれる舞人生

あふれる舞人生

というわけでも

 

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「初めての方よ。だから早く。お兄ちゃん達はもう起きてるんだから」
「へいへーい」
 もう一つトマトを頬張った。着替えに戻ろうと体を向き直した時、ドアが開いた。
「エツ兄! 昨日、聴きにきてくれた?」
 入ってきたのは悦嗣で、夏希は抱きついた。酒臭い息に年の離れた兄は、顔をしかめた。
「行った行った。おかげで疫病神に捕まったけどな」
「何それ? あれ?」
 夏希は悦嗣の後ろに誰か立っていることに気づいた。
 首を伸ばし堅持夢想見る。確かに今まで兄が連れてきた友達の中にはいなかった顔である。が、まったく知らないない。
 相手は夏希と目が合ったので、軽く頭を下げた。右目の下のホクロに目が止まった。
「えっ、もしかして中原さく也…さん?」
 付け足したような敬称は、さすがに呼び捨てはまずかろうと言う、一瞬の判断からだ。
「夏希、早く着替えてきなさい」
 母の再度の促しは、少し怒りモードだった。夏希は舌をぺロッと悦嗣に見せて、今度こそ素直に居間を出て行った。
 悦嗣はさく也にテーブルの席をすすめた。母が温めた味噌汁を二人の前に置いた。
 立浪教授から悦嗣とさく也が解放されたのは、夜中の二時だった。
悦嗣はそこそこ自分の酒量を知っているし、立浪教授の前で酔いつぶれて、意識の無いうちに何かを承諾させられることを警戒し、努めて注意していたので、最後まで正気を保っていられた。
 かたやさく也はと言えば、知らぬ間に眠ってしまっていて、泊まっているホテルも聞き出せない状態だった。たまたま悦嗣の実家に近く、連れ帰ったのである。妹の夏希が遅かったせいかまだ母は起きていたので、ちゃんと布団の上で眠れたのは助かった。
「あの子ったら、幾つになってもガサツで困るわ。やっぱり男兄弟健康小貼士に囲まれて育ったせいかしらね。ちゃんとおはようって言った?」
「言ってない」
と、悦嗣が言い終わらないうちに、どたどた足音も高く夏希が居間に戻ってきた。
「おはようございます! 先ほどはどうも失礼しましたっ。私、この『不肖な兄』の妹で夏希と申します」
 まっすぐさく也の方に歩み寄りその手をとると、握手した。ぶんぶんと音がしそうな勢いである。
 さく也はされるにまかせ、かろうじて「どうも、中原です」と呟いた。
「感激、ホンモノに会えるなんて。昨日、後輩が中原さく也が来てるって言ってたけど、本当だったんだぁ」
 そこから先は機関銃の如き単語の羅列が、延々と続く。血縁者たる母も兄も口を挟めないのだから、赤の他人のさく也など太刀打ち出来ない。それでもその目に嫌な色は見えなかった。彼女の天真爛漫で嫌味のない性格が、人を不快にさせないことを悦嗣は知っている。
 それに――さく也と二人ではさほど会話は進まない。六月に成り行きでクインテットを組Nespresso Pixie Clips咖啡機んでステージに立ったが、親交を深めるには至らなかった。何しろ悦嗣がコンサートに出ることが決まってから本番までは五日ほどしかなく、その時間はすべて練習に費やされたからである。それ以後、会う機会もなかった。
 そして――さく也の自分に対する気持ちを、悦嗣は図りかねていた。打ち上げの夜のキスの意味も、空港ロビーでの言葉の意味も。
 夏希のおしゃべりな性格は、朝食の時間を明るくしてくれる。だから無理に止めようともしなかった。